ピアノを習っていると、ふとこんな声が心の中に湧いてくることはないでしょうか。
「もっと難しい曲を弾かなきゃ…」
「ショパンやリストを弾けなきゃ“ちゃんと”してない気がする…」
「発表会でJ-popを弾くの、なんか恥ずかしいかも…」
実はこれ、珍しい悩みではありません。むしろ多くのピアノ学習者が、無意識にこの「難曲=偉い」という幻想に飲み込まれています。今回はこの“上手さ信仰”について、人間の心理的・文化的背景から探ってみたいと思います。
★6を弾ける人が偉いのか?
全音のピアノピースには★(星)で難易度が表記されています。★1から始まり、★6が最高難度。「★6の曲を弾いている」というだけで、なんとなく尊敬されるような空気、ありますよね。
でも冷静に考えてみてください。★4の曲でも、例えばプロでなければまともに弾けないものがたくさんあります。テクニックだけでなく、音楽性や表現力が問われる名曲だってある。それでも「★6じゃないから簡単」だと判断される場面、ありますよね。
これは、日本の教育文化に根差した“偏差値信仰”とも関係しているように思います。
「人間は動物だから、マウントをとる」理論
社会心理学や進化心理学では、人間もまた動物であり、集団の中での「順位」や「立場」を常に無意識のうちに意識していることがわかっています。簡単に言えば、「上に立ちたい」「劣っていると思われたくない」という本能がある。
この本能は、成績、年収、肩書き…そして「弾ける曲の難しさ」にまで顔を出します。
発表会で自分の前にベートーヴェンのソナタ、後ろにショパンのバラード。自分は中島みゆきの『糸』。
…なんだか落差を感じてしまう。
でもそれは、「誰が偉いか」という目線を内面化してしまっている証拠です。
「ポップスはクラシックより下」という思い込み
「クラシック>ポップス」という暗黙のヒエラルキーも、残念ながら根深いものです。
確かに、クラシック音楽は構造も複雑で、演奏にも高度な技術が必要とされます。ですが、それをもって「偉い」と感じてしまうのは、やはり偏差値社会が作り出した「難しい=価値がある」という感覚のせいではないでしょうか。
ピアノでポップスを弾くことには、繊細なタッチやリズム感、曲の雰囲気を“汲み取る力”が必要です。むしろポップスこそ、今の時代に人の心を動かす“生きた音楽”とも言えるのに、それを「下」と見なしてしまうのは、やや悲しい話です。
クラシック信仰と「技術=美徳」の日本文化
実は、日本は世界でも稀に見る“クラシック音楽が尊敬されている国”です。ヨーロッパでは、クラシックはもはや一部の愛好家のもの。日常的に流れるのはHipHopやポップスです。
でも日本では、今でも「クラシック=教養」「クラシック=本物」という印象が強く残っています。そこには、「匠」や「技」に対する敬意、職人文化に通じる“技術信仰”があるように思います。
日本人は、「とにかくすごい人」を讃えるのが好きです。『下町ロケット』の佃社長、大谷翔平の二刀流…。努力と技術と根性で“上を目指す”物語に共感しやすい国民性とも言えるかもしれません。
難しい曲を弾くことは、素晴らしい。だけど…
誤解のないように言えば、「難しい曲を弾くこと」は素晴らしいことです。でもそれが「偉いこと」かどうかは、また別の話。
ピアノは、音を楽しむための道具です。★6を弾いても心がこもっていなければ、人の心は動きません。逆に、★2の曲でも、心から歌い上げられた演奏は、深く心に残ります。
「弾きたいから弾く」
「好きだから練習する」
その気持ちが、なにより大切なのではないでしょうか。
最後に:マウント社会に呑まれないために
人間がマウントをとりたくなるのは本能です。だからこそ、「自分がなにを大事にしたいのか」を、自覚的に選ぶことが大事です。
誰が★6を弾いていようと、
誰がショパンを連弾していようと、
あなたが『糸』を本気で演奏するなら、それはまぎれもない“表現”です。
むしろ、“難しさ”に逃げず、“好き”を貫く人こそ、ピアノと長く付き合っていけるのかもしれません。
0件のコメント