ピアノは、あまりにも真面目な顔をしている。教会にも、街角にも、保育園にも、テレビにも、クラブにも出入り自由なこの黒と白の化け物は、今日も私たちの「音楽の常識」を壊さないふりをしながら、したたかに生き延びている。

さて、今回は「ピアノの汎用性」について考えたい。あまりにも当たり前すぎて、誰も正面から論じようとしないこのテーマに、あえて踏み込んでみる。例によって、話は脱線し、時に悪意のようなものも混じるかもしれないが、それもピアノの持つ「響きの幅」だと思って読み進めてほしい。

ピアノという「どこにでも現れるやつ」

たとえばX JAPANのYOSHIKI。彼はピアニストか?ドラムも叩くし、作曲もするし、服も売る。しかし「紅」のあの有名なピアノイントロを聞いたことがある人なら、彼のアイデンティティにピアノが根深く関与していることは否定できない。ヴィジュアル系という極めて様式的なジャンルにおいて、彼のピアノは時に血の涙を流すような役割を担う。華やかで、過剰で、耽美的だが、そこに「ピアノがあること」は、もはやジャンルすら裏切っている。

一方、ハラミちゃん。路上で始まり、YouTubeで躍進し、今やホールを満員にするピアニスト/エンターテイナーだ。彼女の演奏は「正確さ」よりも「楽しさ」重視。感情の起伏に合わせてテンポも強弱も自在に変化する。音楽理論的には「乱暴」と呼びたくなる場面もあるが、それでも成立してしまうのは、ピアノという楽器の「寛容さ」に他ならない。

さらに下ると、ゆゆうた。もはやピアニストかどうかさえ議論の余地があるが、ピアノを弾いている限りにおいて、彼もまた「ピアノの汎用性」を体現している。下ネタも、社会風刺も、時に涙すら誘う彼の動画の根底には、常に「人を楽しませるピアノ」がある。ピアノが弾ければ、品性を問わず世界を狙える、という現実を示した点で、ある意味もっとも現代的なピアニストかもしれない。

坂本龍一と久石譲──ピアノが「消える」瞬間

ここで話を変えよう。坂本龍一と久石譲、この二人の巨匠は、ピアノを使って「ピアノを超えてしまった」人々である。

坂本龍一のピアノは、時に音楽よりも思想に近づく。ノイズや沈黙と共存しながら、ピアノはただの「音源」にまで分解される。そしてそれでもなお、ピアノであることをやめない。クラシックの装いをしておきながら、解体している。ここまでくると、もはや「楽器」という概念すら信用できなくなる。

久石譲の場合は、逆にピアノが「空気になる」。ジブリの楽曲に代表されるように、彼のピアノは情景に溶け込み、聴き手の記憶と結びつき、「ピアノの音だった」という認識さえ消し去ることがある。これは、ピアノの持つ“情緒的即応性”の極致であり、汎用性を超えた「潜伏性」とでも呼ぶべきだろう。

ピアノは誰のものか?

ピアノの厄介なところは、誰にでも弾けるように見えて、誰にも所有されていないことだ。

・音大生が涙を流しながら練習する楽器であり、
・プロデューサーがマウス一つで打ち込むための素材でもあり、
・初心者が「猫ふんじゃった」で得意気になる装置でもある。

この多面性は、他の楽器にはない。バイオリンを道端で適当に弾いたら犯罪に近い音が出る。トランペットを自己流で吹いたら蜂の巣をつついたような騒ぎになる。しかしピアノだけは、それなりに「形」になってしまう。だからこそ、人々はピアノに惹かれ、同時に「この楽器の本質はどこにあるのか」と戸惑うのだ。

結論を出すと見せかけて、出さない。

ピアノの汎用性は、賞賛に値する。しかしそれは、音楽の本質を曖昧にし、ピアノという存在そのものを「便利な道具」にしてしまう危険性も孕んでいる。

X JAPANのYOSHIKIがピアノを叩くと、それは血のように流れる。
ハラミちゃんが弾けば、それは拍手になる。
ゆゆうたが鍵盤を叩くと、笑いが起きる。
坂本龍一は沈黙を弾き、
久石譲は風景を鳴らす。

この5人の間に共通点があるとすれば、それは「ピアノが万能であることを、誰も真に信用していない」点かもしれない。それでも彼らは、ピアノを使う。信じきってはいないが、捨てられない。汎用性とは、使い方が多いことではなく、「裏切られてもまた戻ってしまう」ことなのかもしれない。


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