電子ピアノで、べつに困ってませんけど?
ポップスを演奏するのに、グランドピアノは本当に必要なのか。これは非常に現代的な問いであると同時に、どこか“言ってはいけないこと”のようでもある。
電子ピアノは、録音もできる。持ち運びも簡単だ。夜中に弾いても誰にも迷惑をかけない。そもそも、現代のポップスの多くはピアノ単独で勝負しているわけではない。打ち込みも同期演奏もある。むしろグランドピアノの「鳴りすぎる音」は、ミックスの現場では扱いづらい。つまり「実用性」だけを見れば、電子ピアノで十分なのだ。
それでも、グランドピアノを求める人がいる。しかも、ポップスで、である。
この「で、ある。」に宿る妙な引っかかりが、今回の主題だ。
「なぜグランドピアノで演奏したいのか」問題
グランドピアノをポップスに持ち込む。それは、ある種の様式美の演出である。いや、もしかすると“それっぽさ”の演出と言ったほうが正確かもしれない。
グランドピアノを構えることで生まれる視覚的・空間的な荘厳さは、ポップスという「等身大」を標榜するジャンルにおいて、非日常的な品格の演出をもたらす。そしてこれが、案外“本人が満足するため”にとっても重要だったりする。
どんなにチープなコード進行でも、グランドピアノの前に座れば“名曲っぽく”聞こえてくる。名演っぽく見えてくる。人前で演奏する場合は、さらにその効果が増幅される。「この人、ピアノちゃんとやってる感」が自然と立ち上がるからだ。
音響の話をすると、いろいろすっ飛ぶ
よくあるのが、「やっぱりグランドピアノは響きが違う」という言説である。これは、確かに正しい。アコースティックな音響特性において、グランドピアノは他の追随を許さない。
だが、ライブハウスやPAが導入されるようなポップスの現場で、その生の響きがどこまで聴衆に届いているだろうか?そもそも、アンプを通して音を出す時点で「グランドピアノの生鳴り」はキャンセルされている。
たとえば、X JAPANのYOSHIKIが使う透明のグランドピアノは、もはや楽器としての機能よりもシンボルとしての価値に比重が置かれている。透明である必要があるのか?ない。だが“あれが必要だとされる空間”を作り上げるためには、むしろ“透明じゃなきゃいけない”のである。
グランドピアノは、富の象徴か?
リビングにグランドピアノがある──その情景が「音楽と共にある家庭の理想像」として未だに語られるのは、日本の高度経済成長期における中流家庭の幻想の名残かもしれない。
今日では、グランドピアノは「所有していること」自体がひとつの地位を表す。もちろんそれを全面に出す人は少ないが、逆に「こっそり置いてある」ことで漂う品格は、ちょっとしたステータスゲームのようでもある。
それを意識するかしないかは別として、「自分がグランドピアノを弾いている姿」を想像する時、人はたいてい“人前での美しい佇まい”を一緒に思い描いている。つまりそこには、音ではなく、情景への憧れが入り込んでいる。
「オーケストラ×ポップス」の3割は虚栄か?
昨今、ポップス歌手がオーケストラと共演する機会が増えている。もちろん音楽的に素晴らしい公演も多い。だが、一方でこのような企画には「成功の証」としての舞台という側面もあるのではないか。
ストリングスに囲まれて、指揮者を背に歌う──これはまさに「大物っぽい演出」の極みである。たとえ観客が求めていないとしても、「ここまで来たら、やるしかない」的な空気感に支配される。
それはピアノにも通じる。ポップスでグランドピアノを使いたくなる背景には、「ちゃんとしてる自分」を視覚的に提示したい、という欲望が隠れている。
まとめ:響きのためか、見栄のためか、それとも
もちろん、グランドピアノでしか生まれない音楽があるのは間違いない。そして、それを心から愛し、求める人もいる。だが一方で、「本当にその響きが必要なのか?」と問い直すことも、ときには必要だ。
ポップスは“自由な音楽”だ。であるなら、グランドピアノでなければならない、という思い込みもまた、ポップスの自由を縛る「新しい不自由」になっていないか?
そう考えると、問題はYOSHIKIの透明ピアノではない。「ああいうのを使えばウケるんでしょ?」と安易に便乗する大人たちや、ピアノ=高尚、という旧態依然の図式を今なお崇める一部のプロデューサー陣にある。演出とは、他人に言われてやるものではない。演出とは、信念である。
透明なグランドピアノの前で、音を通じて沈黙すら演出してしまうYOSHIKIは、その意味では誰よりも音楽に誠実だ。問題は、その表面だけをコピーして「音が高級っぽければいい」と考える発注側の浅はかさにこそあるのではないだろうか。
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